人形町の歴史

江戸城下の街づくり

天正 18 年 (1590) 、徳川家康が江戸に下向した当時、江戸城のある台地の東側は広大な湿地(汐入の干潟)でした。ここを埋め立てれば水上交通の便もよかったため、家康は早速、街の造成に着手しました。これが、城に対する下の町として造られた、現在の中央区全体と千代田区一帯の地域です。下町と言われる所以はここにありました。掘り取った土を両側の土地に積み上げ、低地の嵩上げを行いながら整地し、掘割が縦横に巡らされて行きました。この時に出来た掘割の代表が、今も残る日本橋川です。埋め立ては、日本橋北部から始まり、ほぼ 30 数年をかけて常盤橋から本町、浅草筋、道三河岸あたりへと徐々に進み、浜町以南新橋あたりまでの造成が完了しました。人形町もこの時期に産声を上げたのです。

商業の町日本橋

江戸開府に伴い、大名の江戸屋敷が建ち始め、街造りが進み、人足、職人等の流入で江戸の人口は急激に増加しました。それに伴い、大量の生活物資が必要となりました。このため家康は「地代免除」の特典を設け、江戸城下への出店を奨励しました。この制度は「権現様御遺訓」と呼ばれ江戸末期まで続きます。これにより京・大阪などから商人たちが続々と集まり、日本橋を中心に商業地域が出来上がります。日本橋の北詰から江戸橋にいたる河岸は、関東大震災で築地に移転するまでの約320年間、魚河岸五町(長浜町、室町など)と呼ばれた江戸の台所でした(現在、日本橋の袂に碑があります)。また橋の東側一帯(人形町など)は、繊維街として発展。朝は魚河岸、昼は歌舞伎、夜は吉原に人々が繰り出し、「朝昼晩三千両のおち処」と唄われた記録もあります。

江戸の歌舞伎街 人形町

江戸開府後の寛永元年 (1624) ころ、京都から江戸に下ってきた歌舞音曲の名人猿若勘三郎が、猿若座(のちの中村座 ) を人形町に開いたのが江戸歌舞伎の始まりです。次いで、泉州堺の村山又三郎が村山座(のちの市村座)を興し、ともに人形町に歌舞伎上演の芝居小屋を建てました。場所は現在の人形町 3 丁目と堀留町の辺りです。周辺には人形浄瑠璃をはじめ、説経芝居から見世物小屋、曲芸、水芸、手妻 ( 手品 ) と安い料金で楽しめる小屋もたくさん建ち並び、大名から庶民まで多くの人々が、当時の代表的な娯楽だった芝居見物を楽しんでいました。当時の大芝居見物は、芝居茶屋とセットの一日がかり。まず朝、茶屋に上がり(火を使う照明は許されなかったので、興行は昼間のみ)桟敷で芝居を見、幕間には酒に肴、お茶やお弁当が桟敷に運ばれ、芝居が終わると茶屋でくつろぐという贅沢な遊びでした。芝居はあらゆる流行の発信源。役者にあこがれ熱狂する人々の姿は、今で言う追っかけ。芝居や芸能のお好きな方には理解できるでしょう。

人形町 町名の由来

安くて、短時間で十分に芝居を楽しめる、庶民の娯楽として盛況だった人形芝居。この界隈(現在の人形町 2 丁目周辺)には人形を作る人、修理する人、商う人や、人形を操る人形師らが大勢暮らしていました。また、季節ごとに市がたち、正月には手鞠・羽子板、 3 月には雛人形、 5 月には菖蒲人形などを商い、年間をとおして賑わいの絶えない街でした。「元禄江戸図」には堺町と和泉町の間の通りに「人形丁」と書かれており、当時からこの呼び名で親しまれていたようです。正式に「人形町」という現在の町名になったのは、関東大震災以降の区画整理によるもので、昭和 8 年になってからのことです。 現在人形町 3 丁目には、辻村寿三郎さんの人形館「ジュサブロー館」があり、歴史の深い因縁を感じさせられます。

人形町の繁栄

慶応 4 年 (1868) 、明治の新政府は「江戸ヲ称シテ東京トセン」とし、 260 余年続いた江戸の街は、新しい都市へ変貌を始めます。人形町を大きく変えたのは、明治 5 年の鎧橋の完成による新道開通と水天宮の移転でした。かつては “ 鎧の渡し “ が唯一の渡河手段でしたが、新道が開通しその年、赤坂から有馬家が移ってきました。水天宮はこの有馬の藩邸内社で、人々は門外よりお賽銭を投げ入れて参拝していました。毎月 5 日の縁日に限り、庶民にも開放されたため「なさけありまの水天宮」と流行語になったほど。また、鈴乃緒(鈴を鳴らすさらしの鈴紐 ) のおさがりを腹帯に用いると安産になる、と言うご利益に誘われ参拝客が押し寄せました。 5 日の縁日や戌の日には参詣人は、江戸時代からの大店、芝居小屋や寄席、飲食店などが立ち並ぶ人形町にも溢れ、東京市有数の繁華街として栄えました。ちなみに「甘酒横丁」の名前は、当時あった尾張屋という有名な甘酒屋に由来します。

人形町に吉原

江戸の初期。町中には、武士を対象とした娼家が現れはじめます。風紀の乱れを恐れた幕府は、慶長 17 年 (1612) 、葺屋 ( ふきや ) 町東の葭 ( よし ) の生い茂っていた二町四方 ( 約1万5千坪 ) の沼地を埋めたてます。塀で仕切り廓をつくり、町中に点在していた娼家を移しました。こうして生まれたのが幕府公認の遊郭・吉原です。はじめは「葭原 ( よしはら ) 」でしたが、後にめでたい文字をあて「吉原」と表すようになります。芝居見物と並び、遊郭での遊びも江戸の華。武士に限らず羽振りの良い商人や職人、町人たちにもてはやされ繁盛を極めていたようです。 寛永 9 年 (1639) の「武州豊島郡江戸庄図」に、塀で囲まれた吉原が記されていますが、明暦3年( 1657 )の大火(振袖火事)で廓のほとんどが焼失。この地での営業は 40 年足らずで、浅草に移ってしまいます。現在の ” 大門通り “ の名称は、吉原の大門に通じる街路の名残りです。

粋でおきゃんな下町の心意気

江戸の末期、天保の改革(1841年〜)による芝居小屋の移転で、一時活気を失った街は、明治に入ると復活します。現在の人形町二丁目辺りには芸妓の置屋御茶屋が多数集まり、芳町の名は柳町、新橋と並ぶ一流の花街としてその名を馳せました。“粋でおきゃんで芸がたつ“ともてはやされたのが芳町芸者。独特の下町気質と、秀でた遊芸が売りで、明治から昭和にかけて、著名人や相場師たちに親しまれました。相場師たちの遊びは「一夜大尽、一夜乞食」と言われるほど派手だったことが伝えられています。芳町芸者の代表は、日本の女優第一号となった貞奴。「オッペケペー節」で一世を風靡し新派の創設者でもある、川上音次郎のパートナーとして、日本の新しい演劇の普及に活躍しました。また昭和初期の芳町からは、歌手の小唄勝太郎が出ています。伝統ある芳町花街の心意気は、現在も人形町のそこかしこに息づいています。

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